秋の所感70

 

季節のモノクル

病んで黄熟した秋は窓硝子をよろめくアラビヤ文字。
すべての時は此処を行つたり来たりして、
彼らの虚栄心と音響をはこぶ。
雲が雄鶏の思想や雁来紅を燃やしてゐる。
鍵盤のうへを指は空気を弾く。
音楽は慟哭へとひびいてさまよふ。
またいろ褪せて一日が残され、
死の一群が停滞してゐる。

一「佐川ちか詩集」 川崎賢子岩波文庫

 

 

【情について】

初対面の人を恐れずにいたい。本当は人のことは大好きなのに、誰に対しても片思いな気がする。同じだけの愛情を返してほしい。でも、返されたらそれはそれで、重いし怖い。

人を愛し、それが受け入れられるのは、人に愛されることよりもずっと幸福に違いない。

隣にいるのが恋人じゃなく友達だと残念がっても良いという風潮が嫌い。友達でも、クリスマスは一緒に過ごさせてよ。

高校卒業後、以前と比べて恋バナに興味を失った。当事者の口から噂話を聞いている気分になり、あなたとわたしの関係性に何ももたらしてはくれない。

子は親をこの世に繋ぎ止めるかすがいになるとは限らない。

たまによく知ってるはずの同級生に対して、初対面のころのような気持ちになることがある。

他人の価値観や感情を察することが下手で、正しい対応がいつも分からなくて怖い。でもそんな人の分からなさがきっと好きなんだと思う。

思いやりの心を持つ者が繊細であるとは限らない。

 

【言葉について】

小説の権力がでかすぎる。本といえば小説、じゃないのに。文学は別に高尚でもなんでもない。けど、過度に世俗的になってほしいとも思わない。

文学はポルノに過ぎないかもしれない。でも、それがあるうちは希望がある。

ピアノを弾いている間は文字を書かなくてもいい。文字を書いている間はピアノを弾かなくてもいい。手が使えなくなったら、ずっと歌って踊っているに違いない。

学者が、誰かの作品を時代の中に位置づける。それは必要なことかもしれないけど、時代の文脈でしか見られなくなったら可哀想だ。

言語化するときにこぼれ落ちてしまう感性をどうしたらいいのか分からない。

「地元」という言葉が苦手だ。ずっと住んでいる一定の土地がないというのもあるし、今の地元、といっても、根みたいにひとつの土地にくっついてない。そこは別にわたしの一部に含めたいとは思わない。関西弁にもそんなに愛着がない。「幼馴染」という言葉も苦手だ。そんな人いないから。

どこかから借りてきたような言葉で話さないでほしい。全部は無理でも、できるだけあなたの澄んだ言葉を聞きたい。

誰かがわたしの考えを代弁しようとして、たとえそれがほとんど合っていたとしても、それは言葉になる前のいろんな文脈から切り離された、全く別の言葉になってしまう。同じように、名言集みたいに長い文脈の一部を切り取って集められたものは、確かに効率的だし心に残るときもあるけど、発言者に対してあまり誠実な態度じゃないと思うし、言葉をあからさまに消費している感じが苦手だ。

 

【社会について】

簡単に、みんな大好きなんて嘘をつかないでほしい。見えないふりをしている者がいるはずだ。

女の子は身体を大切に、って、めちゃくちゃ気持ち悪い。男の子の身体も同じくらい大切だよ。母体だから大切にするな。自分の身体だから大切にしろ。

全ての人の苦しみが、せめて同じ苦しみならばマシだったのに。分かり合えない違う苦しみを与えるなんて神様は残酷だ。

「社不」が簡単に使われすぎている。真剣に悩んだことなんかないくせに。わたしも前は使っていたけど、もうやめる。

バランス感覚を持ち合わせている人は素敵だと思う。

諦めの悪い人間がもっと増えれば、世界はもっと良くなるのに。

隙を作らないよう常に戦っている気分がして、気づいた時からしんどい。

世の中みんな汚い。でも、生きている限りこの世の美しさを信じたい。

戦争や訃報に一時的に注目が集まって、ここぞとばかりに出版、広報、議論が始まる。最近はニュースそのものではなく、ニュースに対する世間の反応に疲れている。

人を人と思っていない人ばかり、人の考えていることを勝手に想像して、幻想に対して攻撃を向けている、あなたに人を裁く権利はないはずだ。

父親がフェミニズムの本をたくさん買って、いくらか読まずに放置しているとがっかりする。ポーズで満足しないでほしい。でも、わたしも自分が読めるタイミングが訪れるまでは、そういうことをしてしまう。

世界の色んな特集番組を見たあとにツイッターを開くと、Googleマップで小範囲に焦点を当てたときみたいに視界が急変して、頭を整理しなければならなくなる。そのとき、自分の属しているコミュニティの価値観の均一性が浮き彫りになって、怖くなる。同じように興味を抱いて同じように頑張る人としか交わらないせいで世界のほんの一部しか知らない、そのことが本当に怖い。

自分たちのことを自分たちで個性的と言ったり、自画自賛したり、必要以上に誇りを持ったりして、内側に閉じこもろうとする瞬間に立ち会うたび、吐き気がする。(自戒をこめて)

小さくても森がない街は、どんなに物にあふれていても死んでいる。

すごい人を、ただそのままの大きさで称賛しないで神格化する動きが苦手だ。どうしても敵わないと思う人のことを自分とは違う次元の人だと思うことで救われる気持ちはよく分かるけど、線引きしてその人を孤独の側へ追いやっているのと一緒だと思う。

自分は親が死んだことがないから簡単に片親の子を描けないし、自分が引き受けられないような境遇をキャラクターに主体的に選択させることもできない。なのに、ネット上ではどこかで見た大胆で面白い設定を組み合わせて、想像力や説得力のない話をみんなで気持ちよく消費している、これが本当に気持ち悪い。

全てに理由があるとは思っていないけど、少なくとも自分が生みだしたものについては、説明をつけられる状態にする努力をしてくれ、と思う。

多くの人が、自分はまっとうに生きていると信じて疑わず、社会から逸脱した人々を躊躇なく糾弾している。ボタンをかけ違えれば、誰もがその立場になる可能性があるのに。

 

【自意識について】

いちいち、これは苦手、これはおかしい、これは不公平だ、ということを考えてしまう。誰もわたしの価値判断なんか期待していない。

恵まれているって、人に言われるのは癪だ。そんなの誰よりも自分が分かっている、と思いたいけど、そんなことないのも分かっている。

わたしはわたしを苦しめたあなたを赦す。だから神様、どうかわたしのことも赦して下さい。

この身体がもっと身軽になって自由に人のための道具となり得るようになりたい。

(暗闇の中を歩くきみへ) きょうだいの出涸らしな人なんていないよ。わたしは違うし、きみも違うに決まってる。

いつも文字を打ちながら考えているから、文字を打っていない時は考えているようでいて何も考えていないんじゃないかと怖くなるときがある。

自分が意外と潔癖で宗教的な人間であることに最近気づいた。

わたしがこじらせているんじゃなくて、きみが真っ直ぐに育ちすぎているだけ。

直感的に人に不快感を感じるとき、自分でもびっくりする。そこからなんでそうなのか自己分析が始まるけど、きっと理由をつけて自分を赦したいだけだ。

人の誕生日を聞くのが苦手だ。興味がない自分に悲しくなるけれど、聞いた時点で祝う義務が生じるのが嫌だ。祝いたいと心から思っていないのに嘘をつくのは嫌だ。ほんとうに祝いたいときの言葉が霞むのは嫌だ。でも、これは受け売りだけど、みんな生きる意味を探している中で、生きているだけで理由なく人に祝ってもらえる、おめでとうと言ってもらえる日がある、それだけで少なからず救われている。

3人以上の集団で一緒にいる期間が長くなると、ある時急に距離を取りたくなる。その集団の色に染まるのが怖い。どこの団体であっても“肯定的な所属意識”を持ち始めたら抜け出したくなる。

思春期真っ只中の中3のときにEuphoriaを観たとき、レズビアン要素に全く気づかなかった。彼らの間にある感情は当時のわたしにとって何の違和感もなかったのに、今はちがうのが残念だ。

守れない約束がどんなに悲しいか、よく知ってる。だから約束なんてめったにしないけど、守れないと分かっている自分に悲しくなる。

理想が高すぎるとか繊細すぎるとかじゃなくて、世の中に妥協して生きたくない。

競争原理が過激化して抑圧的になること、逆に仲間内で差異を隠したり、協調を重視したりする姿勢、どちらも息苦しくなるときがある。

中途半端にコミュニティが被っている知り合いを見下している感情が汚くて、好きじゃない自分が現れないために視界に入ってほしくないと思う。すごく身勝手だけど。

心の中で人の良いところを見つけたり尊敬したりするとき、自分が本心で思っているのか、自分に対してポーズをとっているのか、分からない。

さまざまなことに敏感になればなるほど、純粋に楽しめるものが減っていく。そのことに疲れるときがある。

自分が良い人であるかどうかは自分では分からないけど、良い人になることを諦めないでいたい。

聖書教育が思考の癖と上手い具合に合致してしまい、倫理的な行動規範への呪縛が加速している。

みんなそうかもしれないけど、人間を好きでいるために、何か1個諦めているところがある。

何かをカテゴライズして複数性をとる人と、カテゴライズそのものを嫌う人がいるとすれば、自分は後者だと思う。客観が好きな人と主観が好きな人がいて、わたしはいつも放っておいたら追体験しようとし始めるものを、頑張って客観性を伴って位置づけている。

 

【行動について】

自殺する人って意外と多い。直接知ってる人で3人死んだ。

みんな何も言わないのにいつの間にかお洒落を頑張っている。何もしないだけで取り残されていく。変化するスピードが早すぎて、ついていけない。

平日の14時にTwitterをいじっているのはわたしだけだ。みんな同じ時間に、それぞれの活動領域で活動している。22時になったら一斉に人が増える。時間の方が人間を支配している。

突き詰めたいことが多すぎて時間と身体が足りない。

自分が気持ちよくなるために新しくハマれるコンテンツを探すのがだんだん面倒くさくなってきた。

あんまり寝ない方がいい時にずっと寝て、いっぱい寝たい時にあんまり寝られないのがつらい。

クラシックとか、絵画とか、本とか、映画とかに、もっと能動的に触れたい。一日中、ピアノを弾いて、本を読んで、映画を見るだけの生活ができたら、きっと1ヶ月は持つ。

みんな、毎日を楽しむために頑張っているし、それが結構上手な気がする。でも、毎日を楽しめないときがあってもいいと思う。

現実に見切りをつけたり、将来のために努力したりできる人は凄すぎる。わたしはきっとずっと子供みたいな理想を捨てられないよ。

わたしと同じような人が共感してくれるように文章を書いていると見せかけて、わたしがわたしに共感するために書いている。

流行を後追いしがちだから、流行っているときに知っていればもっと楽しいのかもしれないと思うけど、やっぱりみんなが注目しているうちは別にいいや。

SNS上では虚構や内面の方を公開して、現実社会の方に鍵を掛けるというのはパラドクスっぽくて面白い。

詩や短歌のコーナーをあさってみるけど、結局共感できる文章を探している。本当はそんなふうに本を読みたいわけじゃない。

 

 

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2023年 晩秋の編

今年はあまり外を出歩けていないから、来年はたくさんのところへ出かけて、もっと季節を感じたいな。